【熊簡桜台乗降場】《前編》

え~ご無沙汰していました・・・って10日も空けていないのですが☆本当は10月8日にも更新予定でしたが記事を書いてる途中で保存もしていないまま・・・台風の影響で停電になりましてね(あはは)・・・最初から書き直しになってしまいました☆そんなわけで遅くなりましたが明日は「鉄道記念日」ですからそれを記念して更新します。予定よりも1日早く更新しますが・・・また停電したら大変ですからね~☆

  


熊簡桜台(くまかんさくらだい)乗降場

・開業  2008(平成20)年5月27日(信号所)

・乗降場化  2009(平成21)年5月21日

・駅中心キロ程  0k065m500

・乗降客 不明

・設備 プラットホーム(1代目・平成20年5月27日使用開始・平成21年5月21日使用廃止撤去)

プラットホーム(2代目・平成21年5月21日使用開始)

手押し専用側線(平成21年5月21日廃止撤去)


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▲ 現在の旧道踏切付近。よくよく考えてみればこの画像を撮る直前にデジカメを購入しているので、これより古いデジカメの画像などあるわけないと気が付きました。【18・08・20】


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▲ 道床の工事中。赤い線が現在の熊簡桜台乗降場(雲→熊簡桜台)。【18・08・20】


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▲ 同じく工事中(白熊→熊簡桜台)。青い線は側線の位置。【18・08・28】


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▲ 枕木を並べ始めたころ。画面手前・旧道踏切から画面中程に熊簡桜台、画面奥に雲駅。【18・12・17】



・駅名の由来  北海道とゆうところが私は好きです。北海道のどこと特定するときもありますし全体的にとか漠然ととゆうときもあります。それは場所とゆう意味になることもあれば違う時もあります。例えば「イ●ローよりも駒●苫小牧(北海道の人には通じると思います)」とか?そんな特別な想いがあるのは20代の時に6年余り住んでいたことも多少含まれるのかも知れません。39年分のたった6年でしたからとても短い期間でした・・・過ぎてしまえば。でも東京で生まれ育った私が今この熊野で生活してゆけるのはこの北海道時代があったからこそ成り立っているように思います。逆に無いままここに来ていたら根を下ろすことも無かったかも知れないと思っています。私の故郷(ふるさと)は東京ですから北海道を故郷とは呼べませんが、それでもそれに似たような想いを勝手に名乗らせて戴くことを北海道が許してくれるのなら今の私の原点は北海道にあると・・・勝手に想っています。そんな想いを忘れたくはなくて「簡易軌道」を敷設しています、北海道にしか無かった簡易軌道を。それでもやはり本当の故郷にはまた特別な想いも湧いてきます。北海道を旅していると・・・不思議な地名に出会うことがあります、石狩市兵庫県団体(ひょうごけんだんたい)・空知管内長沼町加賀団体(かがだんたい)・士別市福島団体(ふくしまだんたい)・・・それぞれの県から団体で未開の北海道に開拓のために入った時に付けた地名なのでしょう。大きな地名としては空知管内新十津川町、北広島市などがあります。その他、団体入植の際の企業(開拓会社)名を付けた地名(駅名など)・・・北見市内・北光社【ほっこうしゃ※1】・帯広市近郊・晩成社【ばんせいしゃ※2】・空知管内幌加内町帝白【ていはく※3】など、その他にも開拓者の中心人物の名を付けたり、百戸(世帯)で入植した団体の開拓地で失火によって1戸(世帯)を失った時に「残りの99戸(世帯)でこの未開の地を切り拓こうと気持ちを新たにして・・・」名乗ったとゆう士別市九十九(つくも)など。様々色々な思いはあっても・・・入植者はやはり故郷を想う気持ちが強いのだろうと、そして今もなお故郷を忘れずにその小さな地名を守り続けていることに感動します。そんな私も未開の・・・ではありませんが開墾して農地を切り拓いています。軌道を敷設することになり駅を作る際に・・・せめてひとつは故郷に因んだ駅名を付けたいと想っていました。実際にこの駅の上に大きな桜の木がありますから、それを私の故郷の地名と合わせて「桜台」・・・でも故郷にも駅はありますからそれに遠慮して「熊簡桜台」としました。どんな時代の開拓者も故郷の地名を付けたくなるんですね。


※1 北光社・・・坂本龍馬の甥の坂本直寛が高知県で設立。平成18年に廃止された北海道ちほく高原鉄道(←池北線←網走本線)にも同名の駅があった。市内の地名では「北光」で残っている。

※2 晩成社・・・静岡県の依田勉三が設立。帯広近郊で初めて開墾入植した。昭和62年廃止の国鉄・広尾線に人名から「依田駅」があったほか、その駅のあった十勝管内幕別町に依田の地名、同管内大樹町などに「晩成」の地名が残る。

※3 帝白・・・帝国砂白金鉱業。前述の北光社・晩成社などとは時代も目的も異なり戦後になって食料増産のための開拓団。他に平成7年廃止の深名線・蕗之台駅(駅は平成元年12月から休止し平成2年3月廃止)周辺などにも開拓に入った(蕗之台小学校卒業生からの証言)が数年で解散。帝白地区は無人、蕗之台周辺も他の開拓入植者の転出で現在は無人。


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▲ 今から思えば枕木を並べてレールを敷設してから砂利を入れるべきだったのですが・・・先に入れてしまったとゆう画像。そのくらいド素人だったのです☆【19・03・04】


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▲ 畑の電気柵の機器用に電気を引く。思い付きで「でんわ」と書いてしまった。【19・03・31】


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▲ 草を綺麗に刈るとこんな景色。【19・04・12】


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▲ 線路の敷設工事。【20・03・29】


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▲ 現在の雲駅の位置から撮った桜台の桜。【20・04・11】


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▲ 反対側から。【20・04・11】


当初は平谷中野駅と同様に「駅」で開業予定でしたが、途中駅を充実させるよりも「まずは全通を優先」として側線を配置した信号所として開業しました。このため当初は枕木を半分にしたものを運転上の乗降台(平谷中野駅の1代目ホームと同様)を置いているだけでした。側線についても全通優先のため、バラストを敷かずに動力車の入線は不能でした。この後に平谷中野~みかんヶ丘の曲線改良工事のガードレール用にこの側線のレールを供出することになりまして撤去しました。これによって「信号所」である必要もなくなり乗降場へ格下げとなりました。ただ現在も分岐器と側線の一部レールは残っていますが、その間は繋がっていませんので車輌の進入は出来ません。また平谷中野駅で不要になった同駅2代目のホーム(軌道運搬車)を長らくこの側線で留置していましたが、この側線撤去に伴い同車輌を廃車し当乗降場のホームへ転用しました。このため曲線改良工事の竣工と側線を撤去して乗降場化した日付にずれがありますのはそのためです。また乗降場化された日に側線は本線と分断しましたので側線撤去の日付も乗降場化の日付と同じになっています。ところで1代目のホームですが形は現存していまして、当乗降場のベンチ兼駅名表として活躍しています(駅名の表記は「信号所」のまま)。


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▲ 現在の熊簡桜台から旧道踏切・白熊方面を見る。一番最初の予定では直進して隧道を抜き最短距離で現在の平谷中野付近へ出るつもりでしたがあまりにも無謀な計画ですぐに却下し現在のルートへ変更しました。【19・02・20】


・今後の予定 【熊簡桜台乗降場】《後編》に記載します。


  

  



次回は【熊簡桜台乗降場】《後編》の予定です。更新予定日は大雨が降った日にでもなりましょうか?



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